【2001.09.11】テロから生き延びて十七年、あの日から描く今日がある。

YAMATO

2018.09.12

ニューヨークで生きていた頃。

世界貿易センタービルに二機の飛行機が突っ込み、アメリカ全土のみならず世界に衝撃を与えた。

あのテロ事件から昨日で十七年、世界平和は未だにほど遠く。

ぼくは本気で世界平和を実現したい。

その原体験のお話。

ぼくから始まる、世界平和の物語があると思う。

___________________________

2001.09.11

世界がひっくり返った日、ぼくはニューヨークの小学校にいた。

新年度が始まり、二年生になったぼく。

新しい教室、新しい担任の先生、新しいクラスメート。

まだ、どこかぎこちなさの残る時期だった。

あれは朝のホームルーム、担任の先生が絵本の読み聞かせをしてくれていたときのこと。

突然、知らない先生が教室に飛び込んできた。

担任の先生が外に呼び出され、読み聞かせが止まる。

教室はざわつきかけたものの、先生はすぐに帰ってきた。

「今日はみんな、お昼で帰ることになりました」

特に理由も告げられないまま、ぼくらは学校が早く終わることに喜んでいた。

その日の小休憩。

いつもの通り、校庭で遊んでいたぼくはふと上を眺めた。

あの日の澄んだ青空は妙に印象に残っていて、頭上に伸びる飛行機雲を美しく感じた記憶がある。

雲一つない空に伸びる、一本の白線。

それはそれは綺麗で、心を奪われた。

正午。

いつもなら、みんなでランチの時間。

家からサンドイッチを持ってきていたものの、この日は食べなかった。

親がお迎えに来れた子供たちから、順番に帰路につく。

ぼくは妹と一緒に、専業主婦の母が運転する車に乗って帰宅した。

両親が共働きの友達は、学校で待機することになった。

そのときは迎えに来られない理由が、ぼくらには分からなかった。

まさか、飛行機がビルに突っ込むなんて。

想像もつかない話だった。

幼かったぼくらは普段よりも早く家に帰ることができて、はしゃいでいた。

妹たちと昼間からゲームで遊んだ記憶がある。

非日常な時間が贅沢だった。

ぼくらはテレビをつけることなく、平和な半休を謳歌した。

「なんで早く学校が終わったんだろう」

そのような疑問はいつしか遊びの楽しさにかき消され、なくなっていた。

その日の夜、マンハッタンで働いていた父とは会わず眠りについた。

翌朝、目を覚ますと父は家にいた。

疲れ切った様子ではあったが、それ自体は珍しい光景ではなかった。

慣れない異国、苦手な英語を駆使して働いていた父はいつも、どこかくたびれていた。

ただ、このときは特に疲弊しているように見えた。

父が会社のスタッフに帰宅指示を出して、安全の確保に一日中努めていたことは後になって知る。

大混乱に陥ったマンハッタンからようやく抜け出せたのは深夜、帰宅したのは早朝だったとのこと。

ぼくは当時飼っていたゴールデンレトリバーのハッピーに会うため、庭に出た。

彼女への朝の挨拶は日課になっていた。

外に出てみると、子供ながらに、どこか普段と違う空気を感じた。

町が妙に静かで、不気味だった記憶がある。

誰も外にいなければ、人の気配がない。

隣の家のおじいさんが家庭菜園に水やりをしていない。

いつも散歩している犬仲間が通らない。

急に、世界が活動をやめてしまったみたいだった。

それからのこと。

アメリカで同時多発テロが発生した後の一週間、細部の記憶がごっそり抜け落ちている。

テロの翌日、果たしてぼくらは学校へ行ったのだろうか。

そもそも、学校はあったのか。

ただ、子供ながらに何かが大きく変わった印象は深く脳裏に刻まれている。

町の空気、人々の態度。

当たり前だった日常が壊れていく、嫌な感覚は残っている。

あの日、帰らぬ人となった方の子供が同じ小学校にいた。

その子はしばらく学校には来なかった。

親でなくとも、友人や親戚を失った人は周りにたくさんいた。

すぐ近くにある悲しみの連鎖から、現実が徐々に実感として入ってくる。

ぼくが生きていたアメリカは、生きていることが当たり前ではなくなった。

小学二年生の頃の記憶。

あれから十七年、平和の世界は未だほど遠い。

世界を牽引してきた貿易の中心地・ニューヨークで、二棟の巨大な直方体が崩れ落ちてから。

ぼくらは実体の掴めない、底知れぬ憎悪と向き合うことになった。

2001年は始まりに過ぎず、あの出来事以来、世界を股にかけることは何かと面倒の多いものになった。

空港での検査をどれだけ厳しくしようとも、テロの脅威を根絶やしにはできていない。

2015.01.07

そして、ぼくはフランスに留学していた。

2015年はシャルリー・エブド襲撃事件に始まり、11月にはパリ同時多発テロが起きた。

普段よく歩いていたパリの町並み、日常の景色が殺人現場に一変する。

しかも、その被害者たちは加害者を直接知っているような間柄ではない。

無作為に選ばれた、怒りや恨みの矛先なのだ。

テロの恐怖が骨の髄まで染み込んだとき、生きていることは、本当に、当たり前ではなくなる。

ぼくが死んでいないのは、たまたま運が良かった。

それだけ。

フランス留学の一年が終わる一ヶ月前、ぼくの心はとうとう壊れた。

小学生の頃よりもテロの恐ろしさを理解できるようになり、その怖さに耐えられなかった。

テロに巻き込まれる確率なんて、交通事故に遭う可能性よりも低い。

頭では分かっていても、心が過剰に反応してしまう。

論理と感情の狭間で、ぼくは精神を病んだ。

十四年前に眺めた雲一つない真っ青な空を、よく思い出した。

美しく感じた青空も、飛行機を奪うには絶好の条件だったなんて。

ぼくは一日で荷物をまとめ、大きなスーツケースとリュックを背負い、フランスからばっくれた。

イギリスの田舎町に逃げ込んだぼくが、絶望の中で見つけた光が「日本」だった。

日本には、平和がある。

今はまだ相対的な平和かもしれない。

でも、それを絶対的に拡散できる可能性を秘めている。

自然と生きる、心が平穏な毎日。

ぼくは母国を起点に、成すべきことがあると確信した。

ぼくが今日まで生きてこれたのは、たまたまであると同時に運命だと思う。

ぼくは何らかのご縁で、生かされている。

アメリカで過ごした幼少期も、フランスで送った留学生活も。

ボタンの掛け違い一つで、人生が変わっていたかもしれない。

ぼくはなぜ、今日も生きているのか。

それは成すべき使命があるから。

まずは日本の人々を幸せにする。

そして、世界の平和につなげる。

日本人の幸せとは、物質的な欲求を満たすことではなく、自分らしい選択の連続の上で生きることの実現だ。

心が豊かになれば、幸せの拡散が始まり、連鎖が生まれる。

そんな世界を一日でも早く実現したいし、そのために影響力を持ちたい。

ぼくから始まる幸せの連鎖が、いつか世界平和のきっかけになるように。

「明日が来る」という当たり前を享受して、感謝を忘れず。

ぼくはぼくのできることを、淡々とやり続けるだけ。

最後に、日本の同志へ。

この国は恵まれている。

衣食住に困らなければ、戦争もない。

明日のこと、もっと先の未来を考えて生きることができる。

これだけ豊かな環境がありながら、幸せに生きようとしないのはそれこそ「もったいない」と思う。

全力で生きて、幸せになって。

その輪を広げよう。

yours sincerely,

YAMATO【大和】

___________________________

この記事を書くに至った呟きの連続はこちら。

 

編集後記

寄稿YAMATO
再編集ばるーん

こんにちは。ばるーんです。

重い話ですが、すごく読み応えのある話だったのではないでしょうか?空気感が少しでも伝わればと思います。

私も昨年アメリカに留学していて、実際に同じ州内で大学や教会での銃乱射事件が起こった際のみんなの空気感や町に漂う独特の雰囲気を忘れることができません。

日本にいながら、見るニュースとは全く違う恐怖感に体験の説得力を感じました。

みなさんの平和を願って。

タイトルとURLをコピーしました