普通に苦しむ、すべての人へ 〜これを読み終えることができた人は、愛すべき変態 aka マイメンこと未来の同志で間違いないって話。〜

YAMATO

プロローグ

はじめまして。

『こころ着火マン』という肩書きで活動しております
YAMATO(@yamatokomura)と申します。

・日本の「普通」に殺された帰国子女

・英語でお預かり『KOMRADES』ベビーシッターサービスで起業

・300人規模のアパレル系ECベンチャーにて、社長の金魚の糞 aka 右腕

・ディベート世界大会「Thessaloniki WUDC 2016」日本一のチーム

・A cappella Spirits! EX 〜ネタバン全国大会〜 ファイナリスト

・休学/休職を支援する元うつ状態の引きこもり YouTuber

・英検一級&TOEFL/TOEIC満点の英語教師

・オンラインサロン『ディベトレ』オーナー兼『Reinvent』『脱日本サロン』アドバイザー

 

など、今のぼくに貼り付けられている、いくつかのラベルを紹介させていただきました。

一見、一つ一つのラベルは繋がっていないかのように映るかもしれません。

しかし、それぞれの点が線で結ばれたとき、まるで満点の星空に星座を描くように、ぼくの「こころ着火マン」としての物語が浮かび上がります。

ぼくの物語を通じて、今この文字を読んでくれている誰かが、自分自身の星座を描くきっかけになれば幸いです。

 

今、奇跡的なご縁でぼくの言葉と出逢い、時間という有限の資産を使い、読み進めていただいていることに感謝申し上げます。

これから綴られるのは、ぼくが人生をかけて実現する夢の物語(ノンフィクション)。

過去に根ざす原体験、そして、現在の活動から紡ぎ出される未来への歩みです。

 

日本人が「アイ」を持って生きる世界をつくる。

 

その夢を叶えるためにも、同じ志を分かち合える同志と出逢うべく、命を燃やして執筆しました。

ぼくの情熱が誰の心に火を灯し、その炎がまた別の誰かに受け継がれますように。

前置きが長くなりましたが、本作品を、自己紹介を兼ねた決意表明とさせていただきます。


※本作品を初めてお読みになる方は、途中に差し込まれているリンク先へは飛ばず、一度最後まで読み進めていただければ幸いです。

※※載せているブログ記事などは再読される際の味付けとして「二度美味しい」みたいな感覚で楽しんでいただければ幸いです。(頑固なラーメン屋の「まずはスープから味わってくれ。そして麺を絡めて、最後に薬味を足して完成だ」みたいなノリです)

※※※もちろん、あくまでも推奨なので、ご自由にどうぞ。

表層的なプロフィール

YAMATO、本名は古村大和(こむらやまと)五人家族の長男。

1994年、京都生まれのニューヨーク育ち。

幼少期をアメリカで過ごし、中学校に入学すると同時に帰国。

日本の同調圧力に屈し、自分自身を見失った経験がきっかけで、唯一無二の生き方を徹底的に探求する決意を固める。

同級生がエスカレーター式で同志社大学に進学する中、秋田県は国際教養大学へ。

卒業後はマイメンこと社長と運命的な出逢いを果たし、ベンチャー企業に勤める傍ら、個人として起業。

休日は路上ライブで投げ銭をいただきながら、M-1グランプリに挑戦するなど、幅広く人生のネタ集めに奔走している。

現在は「こころ着火マン」という肩書きで、いつ死んでも後悔のない生き方を個々人が描く案内人を務めています。

日本人が「アイ」を持って生きる世界とは

ぼくが毎朝、目覚める理由はひとえに夢を叶えるためです。

ぼくの夢は、日本人が「アイ」を持って生きる世界をつくること。

「アイ」には二つの意味が込められています。

それは他者や自分を思いやる「愛」であり、わたしを意味する「I」です。

誰かへの感謝や応援、愛のある言葉と行動に溢れた社会を実現したい。

そして、日本人それぞれが「わたしは」「ぼくは」といった自分軸を持って、自らの信じる幸せを全力で追求できる世の中にしたい。

 

夢を叶えるために、ぼくは現在、個々人が自分軸を見つけ、じぶんらしい生き方を再発見する過程を、オンライン中心でお手伝いしています。

日本人が「アイ」を持って生きる世界をつくる。

ぼくがなぜ、このような夢を描くにいたったか、ぼくの原体験を4つの「アイ」の物語にまとめました。

 

個性へのアイ 【幸せいっぱいの小学生編】

日本人が「アイ」を持って生きる世界をつくる。

なぜ、愛のある言葉と自分軸に溢れた世界をつくりたいのか、ぼくの「個性へのアイ」はアメリカで過ごした幼少期に育まれました。

 

 

ぼくは京都生まれ、京都育ちの両親の下、日本で生を受けました。

そして、3歳の頃に父親の転勤がきっかけで、アメリカはニューヨーク州に引っ越します。

 

これは、ぼくが12歳で日本に帰国するまでの、幸せいっぱいの物語。

帰ってきたはずの母国で絶望する布石、そして「個性へのアイ」を育んだ軌跡です。

 

日本に生きる帰国子女なら、必ずと言っていいほど受けたことのある質問の一つが「海外にいたときはどんな生活をしていたの?」ではないでしょうか。

次点は間違いなく「英語できる?」でしょう。(自分調べ)

ぼくはいつも「海外にいたときが、人生で一番幸せだったかもしれない」と答えています。

それは、まだ幼かったが故に世間知らずで、不幸に対して鈍感だったのかもれません。

ただ、紛れもなく、ぼくの幼少期はたくさんの愛情と笑顔に包まれた記憶に溢れています。

 

3歳でアメリカに引っ越したぼくは、現地の幼稚園に入りました。

入園当初は英語ができず、体の大きないじめっ子に目をつけられたことはありましたが、さすがは3才児。

すぐに言語を覚え、気がつけば人種入り交じる『アメリカ人』の輪に溶け込んでいました。

父と母は英語が決して堪能ではなかったので、それはそれは語り尽くせぬ苦労話があるそうですが、ぼくと妹二人は難なく英語を使いこなすようになります。

なんなら、自宅での言語も「親とは日本語、兄妹では英語」で話す映像がホームビデオで残っていたほど。

ぼくにとってはむしろ、日本語こそが勉強して習得した第二言語のような感覚があります。(日本語の奥ゆかしさ、いとをかし)

 

 

ぼくを育ててくれた現地の小学校は、その子の強みに着目して、徹底的に褒めて伸ばす教育でした。

「You can do it」君ならできると励まし、失敗したとしても「Nice try」と挑戦した過程を褒めてくれる。

人間の可能性を本気で信じ、勉強のみならず、スポーツから芸術まで、多種多様な分野に没頭できる環境がありました。

数学は不得意だけど、バスケットボールでならスターになれる少年。

友達をつくることが苦手でも、絵を描かせた日には、逆に周りに人が集まるほどの画才を持つ少女。

それぞれの子供たちが、個々人の好きや得意を活かして、輝ける場所がありました。

ある分野においては劣っていたとしても、秀でている何かで圧倒的に人々を魅了する。

心ない人が「障害」と呼ぶような個性さえも武器に変えて、その人の才能が開花する瞬間が、ぼくはたまらなく好きなのです。

 

 

当時のぼくはポエムに没頭していて、毎日ただただ詩を書いていました。

日記を付ける課題でも、周りが時系列で一日を振り返る中、ぼくは詩で日常を抽象化し、結局その日は何をしていたのかよく分からないノートをつくっていました。

日本では、完全に社会不適合者でしょう。(現に片足を突っ込んでいる)

そんな変態野郎でも「Good job」いいねと肯定してもらえる世界。

おかげさまで、ぼくは学校が終わると、自主的に地元の図書館へ足を運び、一人で詩の勉強をしまくる日々を送ります。

いざ振り返ってみると珍しいことのようにも感じますが、ぼくが与えていただいていた環境下では、ごくごく自然なことだったようにも思います。

 

勉強は楽しくて仕方がなくて、それこそ、遊びとなんら変わらない。

野球がうまくなりたいから、メジャーリーグの試合を観る。

ジムリーダーを倒したいから、草むらに入っては敵のポケモンを倒し、経験値を稼いで進化させる。

歴史の謎を解明したいから、参考文献を読み漁る。

学校の授業も、放課後の宿題も、先生との対話も、全てがぼくの知的好奇心を満たしてくれる、最高のおもちゃでした。

アメリカで過ごした幼少期は、ぼくの可能性を信じて真剣に応援してくれる深い愛情と、失敗は成功の母だと笑顔で元気づけてくれる先生たちによって、学びと幸せいっぱいの記憶として残っています。

 

 

遊んで楽しいと感じるおもちゃは、人それぞれ違う。

それぞれが、それぞれの大好きなことに夢中になれて、それだけで世界が回ったら、どれほど幸せだろうか。

そんな夢のような未来を、ぼくは本気で実現したいと考えています。

だから、個々人の好き嫌いや得手不得手を分析して、その人の好きと得意が誰かから「ありがとう」と言ってもらえる仕事になるように。

一人一人がじぶんらしい生き方を再発見する旅の案内役、星座を描くお手伝いをしています。

 

あの頃のぼくは毎日が幸せで、喜びに満ち溢れていたから。

この世に生を受けた、全ての人の個性が花開くように。

i love Unique.

 

日本へのアイ 【死と復活の中高生編】

日本人が「アイ」を持って生きる世界をつくる。

なぜ、あえて『日本人』にこだわるのか、ぼくの「日本へのアイ」が深まった原体験は中学時代にあります。

 

 

学びいっぱい、幸せいっぱいだったアメリカの小学校を卒業し、ぼくは日本に帰国します。

日本の中学校に入学したぼくがどうなったかは、想像に難くないかもしれません。

結論から申し上げると、ぼくは日本の「普通」とやらに殺されます。

その頃は心臓こそ動いていたものの、死んでいたも同然でした。

これは、ぼくが日本に生きる決意を固めるきっかけとなった、死と復活の物語。


帰国することを聞かされたのは、たしか小学校六年生のとき。

親友たちとの別れは切なかったものの、ぼくは日本での暮らしを前向きに捉えていました。

日本は私にとって、不思議な憧れの国。

大好きな漫画『ドラゴンボール』や『北斗の拳』が生まれた場所。

アメリカに住んでいた当時、分からない漢字があればすぐに調べられるよう、国語辞典を横に置いて読み進めていたのが懐かしい。(意識高い系)

一日でも早く日本に馴染めるようにと、M-1グランプリのDVDを何度も見直しては日本語の勉強に励みました。

その結果、関西弁だけは流暢なニューヨーカーが完成。

 

 

日本に帰国したぼくは、相も変わらず自分の生きたいように生きていました。

制服のない中学校だったので、アメリカにいたときと同様、お気に入りのキャップを被って登校。

すると、そこで初めて、日本の洗礼を受けることになります。

 

「普通、キャップを学校には被ってこないだろ。脱げよ」

 

何気なくクラスメイトにキャップを取られ、それをクラス中に投げ回されました。

たしかに、あのときの教室には誰もキャップを被っている人はいなかった。

だからといって、キャップを被ってはいけない理由が分からなかった。

「普通」という言葉のせいで、多くの違和感を無理やり飲み込んだ。

普通は部活に入る、普通は先生に反論しない。

 

「普通に考えて、分かるだろ。空気読めよ」

 

自分らしく、ありのままに振る舞うと傷つけられてしまう。

いじめられたくなかったぼくは、普通に空気を読んだ。

ぼくが「普通」という縄を、首に巻き始めた瞬間でした。

 

 

空気を読んで、クラスに馴染んでいたぼくはほどほどに楽しい学園生活を送っていました。

いじめられるくらいならと、そこそこ面白いと感じたサッカー部に所属。

気になる点があったとしても、あえて先生に聞くことはしない。

周りに合わせて、なるべく目立たないようにしていればいい。

それでいい。

着実に「普通」という縄はぼくの首を絞め、脈も残り少なくなっていた頃に転機が訪れます。

 

中学三年生の頃、サッカー部の引退試合を敗北で終えたぼくからは涙が出ませんでした。

周りが泣きじゃくる中、一人だけ、いたって冷静に場を俯瞰していた。

何かがマズイと感じながらも、答えが出ないまま、帰宅しました。

そして、疲れた身体でベッドに寝転び、ぼーっとしていたとき、父が部屋に入ってきました。

 

「サッカー、これからも続けるのか?」

「うーん、続けないかな」

「じゃあ、これからなにする?」

「今は分からない」

「まあ、よく考えて。やりたいこと、やりな」

 

そう言って父は部屋から出ていき、再び一人きりになったぼくの目からは大粒の涙がこぼれていました。

悔しかった。

試合に負けても泣けない自分が。

続けたいと思わなかったものに、三年間もの時間を注ぎ込んでしまった自分が。

ただ、周りに合わせていただけの自分が悔しかった。

ぼくは一晩中、泣きました。

 

 

泣き疲れ、空が白んでいることに気がついたぼくは少しだけ冷静になった頭で、アメリカにいた時代を思い出していました。

あの頃は何事にも夢中で、全力で生きていた。

やりたいことをやって、うまくいかなかったら悔しくて。

何度でも、挑戦して。

帰る時間を忘れて親友たちと校庭で遊び尽くした夕方、寝ることも忘れて勉強に没頭した夜。

何気なく、当たり前のように本気で生きていた。

そこで、ふと気がつきました。

ぼくは生きないといけない。

ぼく自身の人生を生きないといけない、そう確信しました。

 

この世に生を受けて。

たくさんの方に支えられて、愛されて。

 

厳格にぼくを想って、不器用ながら導いてくれる父。

圧倒的な母性で、無条件の受容を教えてくれた母。

七転八倒の兄を、笑顔で見守ってくれる妹たち。

これだけ愛されている自分が不幸に生きることは、せっかくの恩を仇で返すようなものだ。

首に巻かれた縄をほどいたとき、せき止められてた血液が身体中を駆け巡った感覚をよく覚えています。

 

 

生き返ってから、ぼくは周囲に合わせることをやめました。

スクールカーストの最下層こと「帰宅部」に入部し、自分のための時間をつくりました。(入部届けは必要ない斬新な部)

そして、高校一年生の夏休み、ずっと行ってみたかった一人旅に出かける。

初めての夜行バスに興奮して、一睡もしないまま目的地に着いたことをよく覚えています。(旅先にて睡魔と戦う本末転倒っぷり)

フランスへの交換留学プログラムに参加したときは、モンマルトルの丘でミサンガを無理やり売り付けられ、初めてぼったくりを経験。(この世が「フレンド」ばかりではないことを学ぶ)

人生で初めて何かに入賞できたのは、このとき挑戦した映画の字幕翻訳コンクールでした。(賞品としていただいたスピーカーは妹に奪われた)(返せ)(やっぱりいらない)

 

片っ端から興味の湧いたことに、飛びつき続けた。

真っ直ぐな好奇心に、従い続けた。

すると、世界の方から変わり始めました。

周囲に合わせない、そんなぼくのことを慕ってくれる友ができた。

好きになってくれる彼女ができた。

愛し続けてくれる家族がいた。

ぼくはもう、何も怖くなかった。

 

 

そして、挙句の果てには、高校の生徒会長にも立候補。

周囲に合わせていただけの頃の自分なら、絶対に取らない行動だったと思います。

出る杭は打たれる。

変に目立って叩かれるくらいなら、選挙演説を聞く側でいい。

中学生の自分は、そう考えていました。

でも、叶えたい想いがあったから。

伝説のラッパー・Eminem の「Lose Yourself」に背中を押されて、出馬。(気分はすっかり『8 Mile』の主人公)

そして、ぼくは仲間の支えもあって、幸いなことに選挙戦を勝ち抜き、当選。

その成果もあってか、日本全国から選ばれた高校生とともに渡米する『高校生外交官プログラム』に合格し、6年ぶりに故郷・アメリカの大地を踏みます。

 

ニューヨークは覚えていた頃と変わらず、混沌としていました。

みんな、違うことが当たり前。

人種も違えば、価値観も違う。

肌の色や目の色、信じている宗教から慣れ親しんでいる習慣まで、みんな、違っていることこそが普通だった。

そのカオスが、それはそれは心地よかった。

みんな、好きなように生きたらいい。

それでいい、そう確信しました。

 

 

 

そして、ぼくは日本を舞台に生きる決意を固めます。

「世界で仕事ができる英語という武器があるにも関わらず、なぜ?」と問われることがありますが、理由はとても単純です。

ぼくにとって、日本は自分が生まれた大切な母国。

そんな日本には一つの呪いがあって、それが「普通」という呪縛です。

ぼくの両親も、日本で出逢った大好きな友人たちも、少なからずこの呪いにかかっています。

それを肌で感じていた自分として、この国の呪いを解かないで海外へ行くことは違和感があります。

 

少しでも、この呪縛に苦しめられている人を減らせたら。

それぞれの首に巻かれた縄を、ほどくお手伝いができたら。

自殺寸前まで歩んだぼくだからこそ、できることがあるはず。

少しでも、ぼくの背中を見せることで、あとに続く勇気をもらってくれる人。

同じような人間がいると、安心して相談してくれる人。

日本の「普通」に殺されけかけている同志の、助けになりたい。

だから、ぼくは日本にこだわり、この国に腰を据えて、命を燃やしています。

i love Japan.

 

弱者へのアイ 【挫折と救いの大学生編】

日本人が「アイ」を持って生きる世界をつくる。

なぜ、仲間がいない人にこそ寄り添いたいのか、ぼくの「弱者へのアイ」は大学時代にうつ状態で引きこもりになった経験が強く影響しています。

 

 

周囲の流れに逆行し、大学受験を決意したぼくは使命感に満ち溢れていました。

人を生かすも殺すも教育次第ならば、ぼくが日本の教育を変えてやる。

教育を通じて、人生の可能性に光を当てられ、また教育によって闇に突き落とされた原体験は「絶対に日本で教師になる」と高校生が確信するには十分でした。

結局は紆余曲折を経て、学校の教員にはならず「こころ着火マン」という肩書きにたどり着くわけですが。(その話は少しお預け)

これは、ぼくが孤独に悩む人の側にいたいと誓った、挫折と救いの物語。


中高一貫校を卒業したぼくは、秋田県の山奥にある国際教養大学へ進学します。

すっかり独自の路線を猪突猛進するようになった結果、入学早々、とある女性とお付き合いしたかと思いきやすぐに振られ、傷ついた心を癒やすべくケニアへ出かけます。(ただ遠くへ行きたかっただけ)

冗談抜きのサバイバル生活を経て日本に帰国すると「刺激が足りない」と言って突如、休学。(すぐ遠くへ行きたがる)

ケニアの便所で腑に落ちた話
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「昼は塾講師、夜はホスト」という謎の生活を始め、貯めたお金で意識の高い学生団体の実行委員として日本中を飛び回る。

復学後は友人とアカペラ部を立ち上げ『ハモネプ出演』を後輩の応援という不本意な形で果たすも、のちに自分自身がボイパとして全国大会へ出場する。

慌ただしいながらも「完璧」に思えた大学生活を送るぼくに、最大の転機が訪れたのは大学3年生のことでした。

 

 

2015年、ぼくにとっては二度目のフランス留学。

そこで、ぼくはうつ状態になります。

ことの始まりは、シャルリー・エブド襲撃事件から二日後のことでした。

 

パリ11区にある週刊風刺新聞を発行している『シャルリー・エブド』本社にイスラム過激派テロリストが乱入し、編集長、風刺漫画家、コラムニスト、警察官ら合わせて12人を殺害した事件。

フランス中がぶつけようのない怒りと悲しみに暮れる中、ぼくはパリのシャルル・ド・ゴール空港に降り立ちました。

一年間の滞在に備え、大きなスーツケースと背中からはみ出るほどのリュックを背負いながら、厳戒態勢が敷かれる空港を抜ける。

明らかに日常とは異なる、重苦しい空気が立ち込める中、ぼくは留学先の地方都市へ向かう列車に一人で飛び乗った。

ぼくは窓の外を眺めながら、2001年09月11日の記憶が鮮明に蘇っていました。

 

 

あれは雲一つない、澄んだ青空に心を奪われた日。

世界貿易センタービルに二機の飛行機が突っ込み、アメリカ全土のみならず世界に衝撃を与えた。

当時、現地で幼いながらに感じていた「我々と敵」という構図に世界が分断されていく嫌な感覚。

実体の掴めない底知れぬ憎悪が社会全体に伝染する恐怖を、これから留学の始まるフランスで思い出していました。

【2001.09.11】テロから生き延びて十七年、あの日から描く今日がある。
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留学先の政治学院では、国際政治を専攻していました。

高尚な理論をどれほど頭に詰め込んでも、フランスの空気は変わる気配がありません。

むしろ外交においては緊張状態が続き、保守的な勢力がフランス国内でも支持を集めました。

自分の無力さや世間の排他的な空気感に悶々としていたところ、同年11月にパリ同時多発テロが起きます。

 

普段よく歩いていたパリの町並み、日常の一部だった景色が殺人現場に一変する。

しかも、その被害者たちは加害者を直接知っているような間柄ではない。

無作為に選ばれた、恨みの矛先。

テロの恐怖がぼくの骨の髄まで染み込んだとき、生きていることは、本当に、当たり前ではなくなりました。

ぼくが死んでいないのは、たまたま運が良かった。

それだけ。

そう痛感した瞬間、ぼくの心はとうとう壊れました。

フランス留学の一年を満了するわずか一ヶ月前のことです。

 

 

テロに巻き込まれる確率なんて、交通事故に遭う可能性よりも低い。

頭では分かっていても、心が過剰に反応してしまう。

小学生の頃よりもテロの恐ろしさを理解できるようになり、その怖さに耐えられなくなりました。

論理と感情の狭間で、ぼくは精神を病んだ。

そして、一日で荷物をまとめ、スーツケースとリュックを背負い、フランスの学生寮から単身ばっくれました。

のちに「うつ状態」と診断されるに至る、一連の出来事です。

 

当時の私は、フランスから逃げ出した自分が許せなかった。

なぜなら、他の日本人留学生はきちんと留学生活を全うしていたから。

今まで順風満帆だった自分が、海外での生活経験もあったぼくがまさか途中リタイアになるなんて。

そのとき、世間から認められていた、輝かしい自分を失った気がしました。

初めて周囲の期待を裏切ってしまったと落ち込み、殻に閉じこもる。

ぼくはもう「完璧」でなくなってしまった。

周りの期待に応えられなくなり、自分自身の存在価値を見失いかけたときに、救ってくれたのが当時お付き合いしていた彼女でした。

 

 

イギリスに留学していた彼女は、逃げるようにフランスを出国したぼくを自身の部屋に泊め、献身的に支えてくれました。

ただ食べては寝る毎日を繰り返す、消費だけの人間に居場所をくれました。(女神でしかない)

もちろん、その期間中に一度もぶつからなかったわけではありません。

それでも彼女はいつも、ぼくのことを理解しようと努めてくれました。

ぼくは彼女から無償の愛を学び、無条件の受容を教えていただきました。

 

現地でカウンセリングを受けながら、心の整理のために、少しずつ自分の感情や思考を文字に乗せてブログで発信し始めました。


「期待に応えること、やめませんか?」

期待に応えること、やめませんか?
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「鬱(うつ)病は存在する。した。」

鬱(うつ)病は存在する。した。
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弱いからこそ吐き出せた言葉に、共感が集まることも知りました。

世の中は強い言葉に溢れています。

なぜなら、想いを届けることができる発信者は基本的に何かの成功者で、彼らの言葉は強さに満ちているから。

でも、社会の大半は彼らのような強者ばかりではなく、今まさにもがいている存在の方が圧倒的に多いでしょう。

強くなくなったからこそ、弱った過去があるぼくだからこそ、世界のどこかで悩みを抱えている孤独な誰かに寄り添える。

仲間がいないと感じている弱者の側にいたい、うつ状態になったことはぼくの大切なきっかけです。

 

彼女はもちろん、家族や友人の支えのおかげで徐々に回復したぼくは、ギリシャで開催された英語ディベートの世界大会で見事日本一の成績を収めることができました。

ディベート界の金足農業が、世界大会で日本一になるまでの物語。
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うつ状態で引きこもりの日々を送ったからこそ、生まれた時間がある。

その時間に自分自身と向き合い、好きなことに明け暮れたからこそ、幸いにも素晴らしい結果がついてきた。

弱さを強さに変えて、失うものが何もなくなったぼくは再び、我が道を歩み始めることができました。

ぼくは、そんな弱い自分を愛し続けます。

i love Me.

 

チームへのアイ 【束縛と自由の社会人編】

日本人が「アイ」を持って生きる世界をつくる。

なぜ、同志と力を合わせて頂きを目指したいのか、ぼくの「チームへのアイ」は自分一人の限界を知った起業の体験が根底にあります。

 

 

留学から日本に帰国した後に待っていたのは、待望の教育実習。

夢への歩みを進めようと通学した初日、職員室に呼び出されたぼくは担当教諭といきなり喧嘩することに。(日本の教育実習生史上最速の「直ちに職員室に来なさい」ではないかと感じています)

理由は、ぼくが自身の自己紹介文にホストクラブで働いていた経歴を書いていたためでした。

 

「お前はホストを育てに来たんか?帰れ」

 

誤解をとくために自分の考えをいくら伝えようとも、そもそも議論の余地が相手にはなかった。

人生の設計図は描けど、破り捨てていい。
>>本文を読む

これは、ぼくが高校生の頃から目指していた教員の夢をあきらめ、名もなき未知の職業をつくろうと奮闘する挑戦と仲間の物語。


教育実習を終えて、授業を行う教師としての手応えは確かにあったものの、学校の教職員にはなれないと痛感したぼくは起業を決心します。

自分で学校をつくってしまえば、話は早いだろう。

後に、英語でお預かりする出張ベビーシッターサービス『KOMRADES』につながる発想はこのときに育まれる。

しかし、起業のノウハウなどは何もない。

学生時代は教育学と政治学に傾倒していたため、ビジネスに関する知識はほとんど皆無でした。

 

 

そこで、就職活動という旗の下、片っ端から会ってみたい会社の社長さんにアポを取りました。

人事の方は会社のいい部分しか言わず、結局は長期的にミスマッチを生みそう。(これは偏見)

企業の社長さんなら、素直に会社の表も裏も語ってくれそう。(これは意外と正解)

思考して行動してみた結果、ぼくは一人のハット系男子と運命的な出逢いを果たします。

今ではマイメンこと「シャチョー」と呼ぶ彼に誘っていただく形で、ぼくは自分とよく似た「幸せオタク」の下で会社員として働くことを決意。

起業はいつでもできるけど、彼とは今しか一緒に働けないかもしれない。

そう感じたのが、決め手でした。

出会って、秒でよく分からないベンチャー企業に就職を決めた理由
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一年目はひたすら社長の金魚の糞として、常に彼の横に付きながらたくさんのことを吸収させていただきました。

全くの未知だったアパレル業界に飛び込み、ECサイトの仕組みを一から学び、コンセプトの大切さやファンづくりの楽しさを知り、300人規模の組織を運営する難しさにも気づきました。

買い付けや検品の仕組みづくりに中国や韓国、パリやラスベガスもともに旅をしました。

どこへ行っても、すべての刺激を仕事につなげてしまう彼の姿勢から、遊ぶように仕事することのイメージが具体的に湧きました。

好きなことならば、息をするかのように継続できる。

新卒一年目が社長に張り付いて学んだこと
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趣味と特技を聞いたところ、どちらも「仕事」と答えてしまうような社長です。(さすがに少し引いたことは内緒)

 

 

そして、社会人二年目を迎えた今年、ぼくは事業を立ち上げる力を身につけるために修行の期間をいただいています。

社外を駆け回る独立遊軍として、キャリア教育や働き方改革の文脈で行う講演活動、ヘッドハンティングとそのための広報、チームビルディング研修などを運営しながら、歩みを進めています。

会社員でありながら、フリーランスのような毎日を過ごし、一人で活動することの大変さを改めて痛感している今日このごろ。

だからこそ、ぼくは今こうして原体験を語り、ともに命を燃やせる同志を見つけようと日々の発信活動に勤しんでいるわけです。

 

ちなみに、会社員とフリーランスは対立関係にあるように語られるときがありますが、これはあくまでも生き方の違いだと考えています。

If you want to go quickly, go alone: If you want to go far, go together.

もしも、あなたが急いで行きたいなら、一人で行きなさい。

しかし、もしも、あなたが遠くへ行きたいのなら、誰かと一緒に行きなさい。

アフリカのことわざにもある通り、どこへいつまでにたどり着きたいか次第で選ぶことのできる選択肢の一つが「会社員」であり「フリーランス」です。

どう生きたいか、すべてはこの問いに帰結します。

 

 

ぼくはと言うと、日本人が「アイ」を持って生きる世界は、一人では到底実現できません。

英語でお預かりする出張ベビーシッターサービスを立ち上げたときも、ぼくの苦手を補ってくれるメンバーがいたからこそ、成立することができました。

 

ぼくは顧客が付くまでの戦略を練り、広報用のホームページを作成しては興味を持ってくれた方々のお宅を訪問して営業をかけただけ。

ビラの作成や、それを実際に歩き回って配る作業。

もっと言えば、そもそもサービスが始動してからのお預かり自体はぼく以外の仲間がすべて運営してくれていました。

だからこそ、ぼく自身も無理なく楽しめたし、それは運営する仲間も、利用してくださるお客様も、みんなが幸せになれるビジネスだった。

 

 

 

ぼくにはできないことが山ほどある。(どん!)

気分屋ですぐに行動してしまう、一人で勝手に理想を高く設定しては実現できず凹んでしまうような人間です。

でも、できることもたくさんあります。(どん!!)

ぼくはこうして、堂々と夢を語ります。

それぞれが強みを活かし、お互いの弱みを補い合うことで、個々人が遊ぶように働ける世界をつくりたい。

そんな世界は、ぼく一人の力では実現できません。

だから、チームが必要なのです。

 

自分が何もかも一人でできてしまう天才だと思っていたときは、無理に自分の不得意な領域にまで手を伸ばし、自らの首を絞めてしまっていました。

でも、今なら自信を持って言えます。

ぼくは天才ではないし、なんなら人に甘えることが極めて下手な長男坊です。(兄妹構成のせいにする)

だからこそ「なんか、あいつ必死になって頑張っているな」「悪いやつではなさそうだし、手伝ってやるか」と感じていただけた方は、是非とも仲間になってください。

ぼくにはあなたが必要で、逆にぼくがあなたの役に立てることも保証します。(多分)

これからの幸せな生き方を共創する、未来の同志へ届け。

i love Teams.

ありがとう

最後まで読み進めていただき、誠にありがとうございます。

一万字以上に渡る大作となってしまいましたが、むしろ自分の人生を読める形になんとか濃縮できたことに感動しております。(脳内BGMはサライ)

そして、執筆しながら「他の人の人生についても知りたい」と強く感じました。

 

どういった想いが根底にあって、あなたは毎朝目覚めているのか。

皆さんの今の生き方につながっている原体験は、何なのか。

 

是非とも、ぼくに教えてください。

ちなみに「私の人生なんて面白くないから」「誰も興味なんてないし」なんて、絶対に思わないでください。

なぜなら、ぼくは一人一人の人生の物語が大好きで、なんなら熱い想いに触れると簡単に涙がこぼれてしまうような泣き虫小僧です。(猫舌)

 

 

日本人が「アイ」を持って生きる世界をつくる。

その第一歩は、これを読み終えてくれた同志が、自分自身の物語を誰かに語り継ぐことから始まるのかもしれない。

つながれたバトンが生み出すであろう幸せの連鎖に、ぼくはわくわくが止まりません。

Pay it forward.

いつか、ご縁があれば。

お互いに死ぬまでは死なないように、ほどほどに頑張っていきましょう。

Yours sincerely,

YAMATO

 

エピローグ

 

命を燃やして書き上げた、ぼくの原体験の物語。

本作品を読んでくれた同志が、率直な想いを綴ってくれた。

人生が動くとき|Rina @in love with America|note
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彼女から湧き出る言葉が熱すぎて、思わず涙を流してしまった。

ぼくの心に灯された炎は飛び火して、やがて世界を巻き込む太炎になる。

その兆しを見せてくれた『Rina』へ、感謝の念に堪えません。

ありがとう。

そして、これからも同志として「日本人が『アイ』を持って生きる世界」を実現しましょう。

最後に

もしも、ぼくの命が突然終わりを迎えたとしたら、本作品を遺書とさせてください。

Dear Dad, Mom, my two Sisters, beloved Friends, and Myho,

My life is complete because of you.

Thank you for being part of my journey on planet Earth.

I genuinely cannot wish for more.

Thank you, once again, for words are not enough.

Thank you.

Thank you.

With love,

Yamato Komura

編集後記

寄稿YAMATO
再編集ばるーん

またすごいボリュームを寄稿していただきました。

みなさんは遺書を書いた経験はありますか?

なんかこの質問するとメンヘラっぽいですが、遺書って意外と書くの大変なんですよ。

誰に何を伝えよう…って思うと筆が止まらなくなり、書いているうちに思い出が去来してなんでこんなことしてるんだ自分となってしまうんですよね(自分の場合)

そんな中大和さんにこんなただただ等身大の素直な文章を寄稿していただきました。

1人でも多くの方に届けば幸いです。

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コメント

  1. […] 普通に苦しむ、すべての人へ 〜これを読み終えることができた人は、愛すべき変態 aka マイメンこと未来の同志で間違いないって話。〜 […]

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